勝海舟著「氷川清話」の中の「政治今昔談」中の「難民の救済」部分抜粋

 天災とは言ひながら、東北の津波は酷いではないか。政府の役人は、どんなことをして手宛をして居るか、法律でござい、規則でございと、平生やかましく言ひ立て居る癖に、この様な時には口で言ふ程に、何事も出来ないのを、おれは実に歯痒く思ふよ。
 全体人間は幾ら死んで居るか、生き残りたる者はまた幾らあるか、おれは当局で無いから知らないけれども、兎にも角にも怪我人と饑カツ者とは、随分沢山あるに相違はない。
 この様な場合に手温るい寄附金などと言うて、少し計りの紙ぎれを遣った処が、何にもならないよ。昔、徳川時代の遣り口と、今の政府の遣り口とは、丸で違ふよ。今では騒ぎ計りいらくつて、愚頭々々して居る内には、死ななくもよい怪我人も死ぬし、饑カツ者もみんな死んでしまふよ。ツマリ遣り口が手温るいからの事だ。何と酷ごたらしいぢやないか。
 徳川時代にはチャント手が揃って居るから、イザと言ふこの様な場合になると、直ぐにお代官が被害地に駆け附けて、村々の役人を集め、村番を使うて手宛をするのだ。
 先づ相応な場所を選んで小屋掛けをするのだ、此処で大炊き出しをして、誰れでも空腹で堪らない者にはドンドン惜気もなく喰はせるのだ、さうすると、この様な時には、少し位、身体の痛む者も、みんな元気が附て来るものだよ。
 炊き出しの米は、平生やかましく責立てなくとも、チャンと天災時の用意がしてあつて、何処へ行きても、お蔵米がかこつてある。それだからイザ天災といふ時でも、苦労をせずに、窮民を救ふことが出来るのだ。
 窮民に飯を喰はせなければ、みんな何処かへ逃げて行つてしまふよ。逃げられては困るヂヤないか、どこまでも住み慣れたる土地に居た者を、その土地より逃がさずにチヤンと住まわしておくのが仁政といふものだよ。
 それから怪我人は、矢張り急場の間に合はせに幾らも大小屋を建て、みんな一緒に入れて置くのよ。さうして、村々のお医者はここへ集つて夜の目も眠らずに、急場の療治をするのだ。何でもこの様な時は素早いのが勝ちだから、ぐづぐづせずに療治していつたものだ。それゆえ、大怪我人も容易には死ななかつたよ。
 徳川時代は、イクラお医者が開けないと言うても、急場になつてマゴマゴする様な者はなかつたよ。それに、なかなか手ばしつこい事をして療治するから、ドンナ者でも手後れの為に殺す様な事はなかつたものだよ。
 左様の風にやつて行くと津波のために無惨なる者も憂き目を見る様な事が無くなつて来る。それから、三ケ年も五ケ年も、ツマリ被害の具合次第で納税を年賦にして、ごく寛(ゆ)るくしてやるのだ。
 一方では怪我人や饑カツ者を助け、他方では年貢を寛めるから、被害の窮民は悦んで業につく様になるものだよ。かうなれば、モーしめたもので、安心さ。