恵比寿のことなど。

 昨日は、久し振りに大学時代の友人と恵比寿で飲みました。広島出身の彼が、大学に入るとはいえ、何で茨城くんだりまで北上して来たのかは、最後まで聞かずじまいでした。まあ、今はいずこの会社も大変で、3時間たっぷり聞き役に徹したつもりでした。

 恵比寿は、筆者にとって実は懐かしい場所なのです。大学を卒業して都内の会社に就職が決まり、最初に住んだ所が、広尾5丁目にある四畳半一間のアパートだったのです。神保町にあった会社までは、地下鉄で1度乗換えるだけで、通勤にはとても便利な場所でした。又用事によっては、JR(当時は国鉄)恵比寿駅もよく利用しました。渋谷、恵比寿からはよく歩いて広尾まで帰ったものでした。

 ある時、何時ものように飲んでの帰り道。地下鉄広尾駅を降りた所で、同じ会社の人間にばったり会ったことがありました。彼らが担当したプロジェクトの客先が財閥系の企業であったため、広尾の高級住宅街にあったゲストハウスでの打ち上げの帰りに遭遇した訳です。「お前こんな所で何をしているんだ」とマネージャーに声を掛けられたので、「自分のアパートに帰る所」と答えたら、「ふざけんな!こんな所にお前が住める訳ねーだろー」と、酔った勢いで一発殴られた記憶があります。

 しかし、当時の広尾はまだそれ程有名ではありませんでした。夜10時を過ぎると、食堂の電気は消えていました。お店の人に理由を聞くと、「みんな渋谷に食べに行ってしまう」とのことでした。今の、有名レストランの集る「ヒロオ」からは想像もできない時代でした。

 所が、地元の爺さんの話。「自分(つまり爺さん)が小さい頃は広尾村で、ここからよく新宿まで遊びに行ったもんだ。今の靖国通りから新宿駅にかけては丁度いい土手になっていて、靖国通りには小川が流れていて、そこで冬などはよくひなたぼっこをしたもんだよ。」と、それこそ明治の後半頃の話を聞かされました。

 休みの日は、山の尾根伝いに国学院大学のそばにある並木橋の場外馬券売り場にも行きました。ある日、サラリーを全部注ぎ込んで、1枚も取れず、それ以来ギャンブルとは足を洗っています。

 大学時代に知り合った数少ない女性の1人が、当時下北沢に住んでいて、夜会いに行ったことがありました。所が、今では理由をはっきり覚えてはいませんが、喧嘩でもして彼女の部屋から追い出されたのです。最終電車もなく、結局京王井の頭線の線路道をただひたすら渋谷まで歩き、明治通りを経由して、自分の部屋に戻ったこともありました。線路上を歩くなど、今では決して許されない行為なのでしょうね。

 その内、オイルショックが日本の経済を襲いました。銀座のネオンは消え、何時も利用していた銭湯の終了時間も零時から、11時になりました。その時間に合わせて帰ればいいものの、何時もの飲むベースは直らず、風呂に入れない日もありました。「やはり風呂付のアパートに越そう」と、広尾から浦安へ引越しをする一大決心をしました。それ以来、広尾へは足を運ぶ機会がないのが残念です。