宮崎正弘「国際ニュース・早読み」(2011年12月9日付)から抜粋

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  読者の声 どくしゃのこえ DOKUSHANOKOE 読者之声
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(読者の声4)太平洋戦争開戦の日にちなんで、戦争中可愛い(?)小学生であった私の悲しい記憶をご紹介したい。
昭和20年、私は小学校低学年で、現在は宮崎県日向市になっている、当時の富島町の富高小学校に通っていた。三菱石油が富島に建設していた、海軍のための製油所に勤務する父親にともなわれ、鎌倉からの転居であった。
社宅が完成するまで、一時滞在した旅館に、宴会のため来られていた海軍士官(学徒出身)の方々の一人と当時の富高航空隊の基地の近くでばったり会って、色々話をした。
http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/sinpu-tomitaka.htm

その方は、身体が弱く、眼も悪いので、飛行機乗りにはなれないと嘆く私を慰め、飛行機乗りなんかにならなくても、お国のためになる仕事はいくらでもあると励まして下さった。そして、これさえ守れば、立派な人になれるよとあり合わせの紙に書いて下さったのが、下記の五省である。そして、もう僕には要らないからと、万年筆も一緒に渡して下さった。
帰宅して、母親に見せたら、万年筆はドイツ製のとても高価なもので、これはお返ししなさいということになって、基地まで返しにいった。小学生が基地の士官に面会するのは容易なことではなかったが、ようやく面会できたのは、本人ではなくて、そのお友達であった。
そして、衝撃。あの人は、「日本を頼むよ」といいながら、五省を書いた紙と万年筆を私に渡された日の翌日、「一足先に靖国にいったよ」ということだった。
万年筆は頼み込んでお預けしたが、五省を書いた紙は手元に残った。
人間はこんなにも涙を流せるものかと思うほど泣きながら、帰宅する途上、私は五省を守ることを何度も何度も誓った。戦争中の粗悪な紙はぼろぼろになってしまったが、それから何回も書き直した五省は67年後の今日も私とともにある。

五省を守っているかといわれると、現実は厳しい。天国があるとして、天国であの人に会わせる顔がない。 でも、私が行くのは天国ではないだろうな。
戦後、日本海軍の兵学校(士官学校)で、五省の額を見つけた米国海軍は、非常に感心し、米国の海軍士官学校に(翻訳した)五省の額を掲げているという。

一、至誠に悖るなかりしか(誠実さに背いていなかったか)
一、言行に恥ずるなかりしか(言行不一致な点はなかったか)
一、気力に缺くるなかりしか(精神力に欠いた点はなかったか)
一、努力に憾みなかりしか(努力するのに心残りはなかったか)
一、不精に亘るなかりしか(怠けてものぐさになっていなかったか)
(YT生 茅ヶ崎市